「日常」って何だろう?/コスタリカ・外出自粛編
こんにちは、MATSUKOです。
コスタリカは本日、国境封鎖の期限について、予定していた5月15日から6月15日まで延長することを発表しました。
新型コロナに対する各国の政府対応はとても興味深いものですね。
さて今回のブログテーマは「日常」です。
日常とは何か?
書いて字のごとく「つねひごろ」を意味するそうです。
「日常」という言葉が使われる文脈といえば、
現在のような非常事態が起こったときや
長旅から帰ってきたとき
病気から快復したときなどに
「やっぱり普通の日常が一番だよね」
などと、当たり前だと思っていたことに感謝する場合が多いように思います。
ただ、MATSUKOはここ5年ほど国境を越える移動や転職を繰り返すことで
一体なにが日常なのか、なにが非日常なのか、よくわからないな、と感じることがたまにあります。
朝目を覚ましたとき
「あれ、私は今どこにいるんだっけ?」と寝ぼけてしまうことすらあるほど。
「居場所は場所じゃなくて人なんだ」
という言葉で家族やパートナーの存在をありがたがることがあるように、
日常はあるいは一緒にいる人によって感じられるものなのかもしれません。
外出自粛が始まり、MATSUKOは瞑想とランニングを日常に取り入れました。
どちらも好きなことなのですが、やはり継続するのは難しくて。
ただ先月4月から再開して1か月、瞑想やランニングをすることで、生活のリズムをつくりやすかったり、感情の整理がしやすく生産的な気持ちになることを感じています。
これが日常の実感なのかもしれないな、と思います。
今後気候変動や自然災害、感染症などで、日常の概念そのものが変わるであろうことは、多くの人々が感じ取っていることでしょう。
でも考えてみれば、10年前、30年前、50年前の日常は今のものとはまったく違っているわけで、
スケールの違いはあれど、はっきりとした「日常」というものはそもそも存在しないのかもしれません。
むしろ日常というのは自らつくり、つかみ取っていくものなのでしょう。
ただし、日常の選択が自分の手中にあることは贅沢なことだ、というのを忘れないようにしたいです。
「日常に感謝しよう」
という言葉は、多くの場合「今自分のいる環境に感謝しよう」という意味合いで使われるように思います。
そしてその背景には「帰るべき日常がある」という前提が存在するのではないでしょうか。
けれど、帰るべき日常はなくなってしまうかもしれません。
そこでMATSUKOは、帰れる日常を守ることも大事だし、そもそも自分にとっての日常が何かを捉えなおし、揺るぎない自己を確立することも、同様に大事なんじゃないかな、と考えました。
この意見に賛成でも反対でも、非日常や不確実性に対する耐性を、いま、一人ひとりが考え直すのに良いタイミングなのかもしれません。
それでは失礼します~