人生最長の海外生活のなかで
こんにちは、MATSUKOです。
現在はコスタリカに滞在しながら、フィリピン・マニラの大学院のオンライン授業を受けています。
内容は国際関係論、公共政策、人間の安全保障など。
国際関係論は理論的な話が多く理解するのに苦労しましたが、環境NGOで働いていた時に感じていた問題意識が、環境問題における政治的な力関係だったので、それについて少し理解が広がったのでよかったです。
公共政策は実践的で面白く、今すぐにでもコミュニティで働きたくなります。笑
どの授業でもコロナの影響について取り上げたり論考を読む機会が多く、経済学部で勉強していたころ、常にリーマンショックについて教授たちが話していたことを思い出します。
数々の危機に面して、私たちはいったい何を学び、何を生かせているんでしょうか。
さて。人生で最長の海外生活を迎えるいま(1年5カ月)、考えたことを二つほど。
一つ目は、同じ場所にいても、見るものは人それぞれだということ。
違う環境で育った人たちと交流すると、さまざまな発見があります。
たとえば散歩していると、MATSUKOなら①車②建物③人④植物、に目が行きます。
一方で、自然の多い環境で育った友人は①車②植物③人④建物、の順で外部を認知しているんじゃないかと最近気が付きました。
それによって記憶の作られ方も変わってくる。
つまりMATSUKOなら
「あの赤い屋根のところで曲がって…」というところを、別の人は
「あのマンゴーの木のあるところで…」と説明するかもしれないのです。
当たり前でしょうか。
これといった結論はないのですが。なんだか気が付いてハッとした経験でした。
もう一つの気づきは、よその環境で過ごす1年は大きな区切りになるということ。
これまで最長だった海外生活はフィジーで9カ月でした。
それを8カ月上回るいま、海外もようやく日常になった気がします。
1年未満だと、ほぼいい意味で非日常感のまま終わるように思います(少なくとも自分のケース)。
1年を過ぎると、特に今のような外出自粛状態というのもあり、マンネリや閉塞感がどうしても出てきます。
とはいえ退屈だと言っていても仕方ないのでやることを探したり会える人と会ったりして、身近なことを繰り返していると、自国からどんなに離れた環境であっても日常化していくものです。
ちょうど2017年の12月、フィジーで海外生活について思いをはせたことを懐かしく思い返しました。
その時の印象は「フィジーは非日常」だったようで。そこで得るもの・失うものについて考えていました。
でも今また考えていることは全然ちがっていて。
一言でいうと何も失っていないってことです。
むしろ学んでいることしかないなと。
世界観の話になってしまうのですが、「失う」という感覚の前提にはきっと「所有」がありますよね。
でも、そもそも私たちが所有しているものなんてないと思うんです。
思い出や愛は死んでも所有できたらと願っていますけど…
そして「失う」感覚の裏には「執着」がある気がします。
今の私の立場が気まますぎるのかもしれないけど、仕事もお金もないけど、そもそもそれらを持っている/持っていないはタイミングの問題でしかないんじゃないかと。
あくまで個人的な考えですが、やっぱり人は変わっていくものだし、それを一生面白がって生きていきたいなと改めて思いました。