Besitos

愛または笑いを込めて

嘘みたいな生活にふりかかる面倒な現実

予想しない出会いとチャンス。現実味のない展開。

誰でも人生のある期間、多かれ少なかれそのような流れがあるものなのかもしれません。私にとっては2021年から2023年がその時期でした。

2023年の奇遇。まさかオランダに出向いてゴッホさんと待ち合せるとは想像もしなかった。

そういう瞬間ってジェットコースターに乗っているみたいにアドレナリンが出て覚醒するんですけど、その後に色々と面倒な事態を処理しなければいけないんですよね。それが面倒な現実。

具体的には、関係者との調整・交渉やら書類手続きやらです。

変化の副作用ともいえるかもしれません。新生活に慣れるって過程も必要とされます。

さらに出会いと別れは切り離せないものでもあります。

 

以上の物事が続くと生活に現実味があまりなくなり、足元がおぼつかない感じがします。

ちなみにそのフラフラした感じが苦手で、2022年にワールドカップを見ているときは

「脚下照顧」を目標に掲げる三苫氏に共感して応援していました。(たしか三苫選手だったと思うけど違うかも…)

 

でも逆に、「地に足がついてる」ってどういう感じなのでしょう?

 

おそらく、自分の軸を持っていて周りに流されない状態だと思います。

そういう意味で、今年静岡でさくらももこさんに再会したのはラッキーでした。

2023年全国行脚のさくらももこ展は、地元静岡で特に盛り上がっていた。

「再会」っていうのも変な表現かもしれませんが、私にとってはそういう印象です。

さくらももこさんは残念ながら2018年に乳がんで亡くなっています。

小学生の頃、『さるのこしかけ』や『もものかんづめ』等彼女のエッセイが好きで、よく読んでいました。

その後強く影響されることはなく一旦離れていたのですが、今年ひょんなことから彼女の地元である静岡に住んだことで、20年以上の時を経てさくらももこさんの作品を見たり読んだりして、その優しく穏やかな味わいに改めて心を惹かれたのです。

 

「なぜさくらももこさんにこんなにも魅了されるのか?」

と自分にたずねた時、イラストのタッチやユーモアセンスなど色々あるけれど、やっぱり彼女の「地に足の着いた」感性がたまらなく好きなのだと気が付きました。

 

たとえば『ももこの世界あっちこっちめぐり』では、ハワイに行っても朝から緑茶を飲んでいる様子が描かれ、背伸びせず自分の好きなものをわかっている姿が、本当に可愛らしくて素敵だなと思ったのです。(私ならここぞとばかりにコナコーヒーを頼むだろう)

 

と、今日は若干ダークな「面倒な現実」を書くつもりでいたのに、いつの間にかほっこりモードになっていました(笑)

 

まぁ、無理やりまとめると、私たちは「面倒な」現実とか、リアルなこまごました事や煩わしい人間関係を人生の副事物のように扱い、「素晴らしい」夢や目標こそがメインだ、みたいに考えてしまう節があるけれど、実際は逆あるいはその二つは表裏一体なんだろうなと。

 

それら面倒なことを引き受けてこそ人格は深まる。なぜならそれこそがまさに現実であり、現実とは日々の積み重ねだからです。

 

と、至極当たり前のことを書いてしまいました。私に言われなくても皆さん十分ご存知のことだと思うので、この辺で失礼したいと思います。

 

ちなみに、この記事を読んでさくらももこさんに興味を持った方がいれば、彼女の半生を描いた『ひとりずもう』がめちゃくちゃおすすめです。

エッセイと漫画の両方あって、私は漫画を持っています。(エッセイもいつか読みたいと思っています)

 

以上、一応今回は2023年の振り返りがテーマでした。(本当に?)

皆様、よいお年を~!

 

秋の桜とスペイン渡航

このブログに手をつけるのは2年ぶりです。

先日訪れた上野公園では、桜の木にところどころ花が咲いていました。

上野公園で花をつける桜(10月中旬)

そういえばこの桜は何だったのだろうと気になって調べても、大きなニュースにはならなかったようで、あまり情報は見つからず。

昨年の東京新聞で取り上げられていたようで見たところ、どうやら落葉と関係があるそう。

桜の花は7月から8月に芽ができ(知らなかった!)、その後葉っぱが花の成長を抑えるホルモンを出すことで、春までの開花をじっと待つのが通常のようです。

ですが、気温上昇や乾燥が原因と思われる落葉が早まり、また気温が上がると秋にも花が咲くことがあるそう。(詳しくはリンクをご覧ください)

10月なのに「サクラサク」!? 名所・上野公園でソメイヨシノがなぜか開花:東京新聞 TOKYO Web

 

とても人気な桜ですが、案外知られてないことが沢山あるんですね~。

 

さてさて。

 

2年ぶりのブログといっても、その間、書きたいなと思うことは結構ありました。

でも何だか、書けなかったんです。

それは、日々現実の動きが早すぎてじっくり立ち止まれなかったこととか、

大きな変化が多すぎて感情の動きが激しすぎたこととか、

単にLINEみたいな短文に慣れて長文を書くのが正直面倒になったこととか、

色々な理由があったように思います。

 

でも、文章は人間の内面を写し、表現することのできる重要な手段だと考えているので、やっぱり再開したくなりました。

 

私、上野の桜を見た後、スペインに引っ越しました。

このブログをはじめて以来6年間、留学や仕事等で国内外含めとにかく引っ越しが多かったものの、今回は一応初めての永住目的の転居なので、これまでになく感慨深いものがありました。

出国前に家族や友人と会い、色々と近況交換などしているとき、彼らは

「MATSUKOって本が好きだもんね」

「MATSUKOは書くのが好きだよね」

と、自分でも忘れていたことを思い出させてくれました。

 

そして、目まぐるしい変化を続ける人生のなかで、道を見失いそうになることもあるけれど、好きなことを好きなように続けていきたいと、改めて思ったのです。

 

好きなものって本当に、宝物なんだよな~。だから、大事にしよう。

 

というわけで、今後どんなことを書いていくかわかりませんが、興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひともお付き合いくださいませ。

秋のマドリード市内

 

武士道「朝夕死ぬ」とは

 仕事が間に合わない、読まなければいけない資料の内容がどうしても頭に入ってこない、時間を作っても集中できない―—

そんなことはありませんか?

特に外出制限が続き、在宅勤務やステイホームが増える現在、仕事やメンタルのセルフマネジメントは重要性を増しています。

 

デスクワークでとにかくPCモニターを見ている時間が長いMATSUKOは

紙の本を読んで気分転換を試みたりします。

 

そんな気分転換の読書で『ハートフルネス』

を読むと筆者の曾祖父の名言が。

「毎日朝夕ごとに、わしは自分が死んだものと思って死を見つめる。

そうして心を静めるのだ。体がすでに死んだとして生きることができれば、

より良く生きられるのだよ」(P.26)

www.amazon.co.jp

 

リスクを恐れず、集中して今を生きろということでしょうか。

 

関連して三島由紀夫氏の『葉隠入門』(新潮文庫)をめくり

「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」(P.105)

を再読。曰く、生死二つのうち、早く死ぬ方を選ぶのが武士道であると。

生を選んだ場合、腰抜けとそしられることがあるが、

死を選んでさえいれば、恥にはならない。それが武士道の本質である。

 

 

以前書籍編集者をしていた頃、出かける時は絶対に部屋の中を完璧に綺麗にすると明言されていた経営者がいました。

彼もやはり死んだ後の「見られ方」に重きを置いており

「事故か何かで万一死んで、知らない人が家に入った時、汚いと嫌だから」

とのこと。

 

当時は「死んでしまえば自分の意識なんてないのに」と思っていましたが

つまり視点を「自分」に置くか、「外部の世界」に置くかで、

短い人生を思えば、ちっぽけな自我に固執することなく

美徳と誇りを貫くのも一つの生き方なのだと感じたところです。

(美徳や誇りも自我に過ぎないという議論は置いておいて・・)

 

とにかく、限られた時間の中でくよくよ悩んでいる場合ではない!

とりあえず夕飯でも作るか・・・と近所のおじちゃんから買った飛騨かぼちゃ(スーパーでよく見るタイプよりも長細い)を煮込み始めたMATSUKOなのでした。

 

潔く生きるって、難しい。

国際協力キャリアについて(20代~30代なかばのエントリーレベル)

最近若手社会人から国際協力キャリアについて相談を受ける機会が増えました。

それは先日APSの説明会に登壇したからなんですが

相談してきた側から相談される側になると発見があります。

以下、気づいたことをランダムにメモします。

 

①迷うなら修士はとっておいた方がいい

修士はとった方がいいですか?」という質問をよく受けます。

国際協力業界に修士マストな職種が多いのは事実なので

これから幅広な選択肢を得たいのであれば、とることをおすすめします。

 

②プライベートとの両立は課題

これは多くの人が通る道のようですが

国際協力という名の通り世界を飛び回るライフスタイルだと

パートナーや家族、自分にも負荷がかかるのは確かです。

もちろんそれを楽しめる人(やりがいを見出す)が多い一方

特にコロナ禍でこの苦労に改めて直面する機会も増えています。

男女、既婚未婚、子なしあり、一様に皆悩む点だと感じます。

 

③問い合わせは早いほど印象に残る。

複数の問い合わせがくると、後の方は正直繰り返しの印象が否めません。

そこで感じるのは「皆抱える疑問は似ている」というのと

「初回は印象的」ということ。

私はアドバイザーとして情報提供するというより自らの経験を語る立場ですが

案外国際協力で、しかも環境やメディアに関心ある人が多いのは良い驚きでした。

何か印象づけたいなら、早めに連絡するのはいいかもしれませんね。

 

④決断後は自分の道をひたすら信じ、進む

考えて決めたら迷わない…自分への言い聞かせです。笑

 

おそらくこれらのコメントは中堅以上になるとまた違うのかなとも思い

エントリーレベル向けとしました。

 

世界も業界もめまぐるしい変化を迎えているので

色々と情報交換・アップデートしていきたいですね。

 

 

東京で働きはじめました

昨年9月に日本へ帰国しました。

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空港で受けたPCR検査は陰性で、2週間の自主隔離を経て実家へ。

大学院のオンラインコース、卒業プロジェクト、卒業試験を終え、年末に無事卒業。

2021年からは東京で、ODAにかかわる仕事を始めました。

 

フィリピンとコスタリカの大学院(オンラインふくむ)で勉強した22ヶ月を振り返るにはまだまだ時間がかかりそうですが、

仕事1週目を終えて、感じたことを書き記したいと思います。

 

①国際協力を仕事にすること

大学院卒業とともに平和構築関連の仕事をするようになりました。ちょっとここで経緯を振り返ってみたいと思います。

20歳でフィリピンの養護施設でボランティアをして以来、貧富の格差を是正する、国際協力の仕事をいつかしたいと願うようになりました。

経済学を専攻していたこともあり、学部時代は貧困問題・経済開発に関心を持ちました。

同時に書くことや人にインタビューすることへの興味があり、記者や編集の仕事に憧れていました。

しかし新卒でそれらの夢はかなわず金融の仕事へ就いたものの、やはり合わずに1年ほどで辞め、書籍編集の仕事を3年ほどしていました。

そこではおもに企画力やプレゼン力、忍耐力などを養い(重要)退職、フィジー青年海外協力隊(広報)に参加しました。

フィジーではパンフレット作成など色々な経験をさせてもらったものの語学ふくむスキル不足を痛感し、海外大学院を希望するように。

また気候変動ふくむ環境問題に関心を持つようにもなり、国際協力のなかでも環境保護サステナブルな開発に携わりたいと考えるようになりました。

受験準備中は、東京に事務所がある国際環境NGOで広報の仕事をさせていただきました。

そこでは使い捨てプラ問題をおもに担当、環境問題や市民活動について理解が深まりました。

そして、大学院では国際政治と環境平和開発を専攻。

卒業後はぼんやりと、日本の脱炭素ふくむ気候変動問題に関する仕事をしたいなと考えていたところ昨年10月に菅総理が脱炭素を宣言、突然のことで衝撃でした。

そしてご縁あり、環境とは違う分野ですが、2021年からはメディア関連の経験を生かし平和構築の仕事をさせていただくことになりました。

 

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国際協力、環境問題、平和構築というのは、非常に長いタイムスパンで見ていく必要があると考えています。

また、さまざまなステイクホルダーがかかわっていくなか、絶対的な答えがない分、批判もされやすく、自分のなかでの葛藤も生まれやすいものだと感じています。

プロジェクトが大きくなればなるほど当然ながら影響力も大きく、一つの理念だけではデザインしていけないようにも思います。

たとえば日本政府の脱炭素の目標もあり、ようやく石炭火力の輸出からの撤退が進んできています。

個人的にその動きは歓迎ですが、現行のプロジェクトや現場の人たちへの影響がもちろん心配です。

平和構築もおそらく一つの答えがあるのではなく、そのプロセスを通じて答えが示されていくものなのでしょう。

という視点は平和で豊かな場所に住んでいるから持てる余裕で、よく言われる通り、平和が保証されていない状況にいる人たちにとっての平和は

「子どもが無事に学校に通えること」

「今日のご飯を心配しないでいいこと」

であったりするのだろうと想像します。

できるだけ想像力を駆使したいけれども、同時にその限界を自覚し謙虚でいたいと思うところです。

 

②時間について

ところで最近、時間が経つこと、人生を長く生きることのポジティブな面を見ることが多いです。

つまり、回り道したのかもしれないけれど、結局、いくべきところに行きつかせてもらってるな、という実感です。

 

最近Trevor NoahのBorn a Crimeをオーディオブックで聞いていて、特に印象に残ったエピソードが、やっぱり「時間」について。

長らく自分と母から距離を置いていた父と、大人になったTrevorが久々に再会するシーン。

感動的な再会を果たし、父のことを知りたいといくら質問攻めにしても、彼はTrevorの質問に答えてくれません。

これまでの離れていた時間を埋めるように、スポーツ観戦やドライブなどに出かける二人。

それでも父は、自身についてちっとも語らないのです。

ついにTrevorは言います。

「パパ、なんで全然質問に答えてくれないの?」

「お前は人について知るとき、どうする?」

「時間をかけてその人を知っていくよ」

「そうだろう。だから今日一緒に過ごして、お前も俺についてわかったはずさ」

「全然わからないよ!わかったのは、パパが異常に秘密主義者だってことくらいさ」

「ほら、お前、俺について理解してるよ」

 

たしかこのような感じの会話があって(ちょっと違ったらごめんなさい)

なんだか含蓄のある言葉だなぁと。

 

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また、自分が死んだ後の世界に想像をめぐらせることで、時間について肯定的になれるのかもしれないとも思います。

気候変動の問題も平和もすべてを目撃することはできないけれど、できるところまではがんばってみよう、って感じです。

 

最近なんだか書く力、表現力の衰えを感じてまして(元々か)

でも書くことは好きだし一生愛していきたいので、書いてみました。

 

どうもお付き合いいただきありがとうございました。

【番外編・人生賛美】満足いく文章

MATSUKOのブログは1000文字あたり30分程度で書いています。

一方、課題が与えられると1000文字に3時間かかります。

つまり仕事関係とか、志望書とか、テーマ創作とか。

英語の課題では、500文字で2時間かけます。

 

満足いく文章(自己満足)は、課題が与えられたときに生まれることが多い。

つまり読者とテーマを意識した場合。

書いて見直したときに「いい球が打てた」って感覚を持てるんだな。

思いつきで気の向くままに書いた文章は、抽象画って感じで、いい時もあるけど失敗の方が多い。

いずれにせよ判断は難しい。

 

夢中になれることについて、たまに考える。

自然の中で遊びたい人もいるし、

画を描きたい人もいるし、

料理したい人もいる。

研究や学問したい人ももちろんいるだろう。

 

私は書くことがなにより面白い。考えることも書く過程も好きだし、それが目に見える形で残るのも好き。過去経験したことが再現できて、時間と空間を行き来できるのが好き。最大限に自由を感じるから好き。

 

こうしてなぜか、小さく叫びたくなったのでした。

VIVA LA VIDA

人生最長の海外生活のなかで

こんにちは、MATSUKOです。

現在はコスタリカに滞在しながら、フィリピン・マニラの大学院のオンライン授業を受けています。

内容は国際関係論、公共政策、人間の安全保障など。

国際関係論は理論的な話が多く理解するのに苦労しましたが、環境NGOで働いていた時に感じていた問題意識が、環境問題における政治的な力関係だったので、それについて少し理解が広がったのでよかったです。

公共政策は実践的で面白く、今すぐにでもコミュニティで働きたくなります。笑

 

どの授業でもコロナの影響について取り上げたり論考を読む機会が多く、経済学部で勉強していたころ、常にリーマンショックについて教授たちが話していたことを思い出します。

数々の危機に面して、私たちはいったい何を学び、何を生かせているんでしょうか。

 

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さて。人生で最長の海外生活を迎えるいま(1年5カ月)、考えたことを二つほど。

 

一つ目は、同じ場所にいても、見るものは人それぞれだということ。

違う環境で育った人たちと交流すると、さまざまな発見があります。

たとえば散歩していると、MATSUKOなら①車②建物③人④植物、に目が行きます。

一方で、自然の多い環境で育った友人は①車②植物③人④建物、の順で外部を認知しているんじゃないかと最近気が付きました。

 

それによって記憶の作られ方も変わってくる。

つまりMATSUKOなら

「あの赤い屋根のところで曲がって…」というところを、別の人は

「あのマンゴーの木のあるところで…」と説明するかもしれないのです。

当たり前でしょうか。

これといった結論はないのですが。なんだか気が付いてハッとした経験でした。

 

もう一つの気づきは、よその環境で過ごす1年は大きな区切りになるということ。

これまで最長だった海外生活はフィジーで9カ月でした。

それを8カ月上回るいま、海外もようやく日常になった気がします。

1年未満だと、ほぼいい意味で非日常感のまま終わるように思います(少なくとも自分のケース)。

1年を過ぎると、特に今のような外出自粛状態というのもあり、マンネリや閉塞感がどうしても出てきます。

とはいえ退屈だと言っていても仕方ないのでやることを探したり会える人と会ったりして、身近なことを繰り返していると、自国からどんなに離れた環境であっても日常化していくものです。

 

ちょうど2017年の12月、フィジーで海外生活について思いをはせたことを懐かしく思い返しました。

その時の印象は「フィジーは非日常」だったようで。そこで得るもの・失うものについて考えていました。

 

matsuko2.hatenablog.com

 

でも今また考えていることは全然ちがっていて。

一言でいうと何も失っていないってことです。

むしろ学んでいることしかないなと。

 

世界観の話になってしまうのですが、「失う」という感覚の前提にはきっと「所有」がありますよね。

でも、そもそも私たちが所有しているものなんてないと思うんです。

思い出や愛は死んでも所有できたらと願っていますけど…

 

そして「失う」感覚の裏には「執着」がある気がします。

今の私の立場が気まますぎるのかもしれないけど、仕事もお金もないけど、そもそもそれらを持っている/持っていないはタイミングの問題でしかないんじゃないかと。

 

あくまで個人的な考えですが、やっぱり人は変わっていくものだし、それを一生面白がって生きていきたいなと改めて思いました。